中沢新一 × 鎌仲ひとみ 対談

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緑の党を作る二つの流れ

鎌仲:緑の党というとドイツのイメージが強くて、この運動がタスマニアの原生林の伐採反対から生まれたのを知らない人が多いですね。タスマニアでは今も日本企業が原生林の伐採を進めていて、それを止めようとスポーツメーカーが用地を買収して保護林にしたそうです。オーストラリア本土でも、新たなウラン鉱山の開発をフランスのアレバと日本の三菱とで計画していて、土地を所有するたった一人のアボリジニが五十億ドルを提示されても売らずに最近、世界遺産に指定してもらいました。日本ではあまりないことですね。

中沢:ニュージーランドの緑の党が党名に「アオテアロア」というマオリ族の言葉を意識的に使っていて、運動の根拠を示そうとしているのを感じます。アオテアロアは「白く長い雲のたなびく島」という意味のマオリ語で、ニュージーランドのことだそうです。ここには、緑の党というものの源泉の一つがよくあらわされています。
 この本は、緑の党をめぐる全体を公平な目で見ながら、必要な事項が網羅的に書いてあって、ガイドブックとしてたいへんよくできています。とても勉強になるところがありました。この本を読んで気がついたのは、いまの話のニュージーランド緑の党のように先住民的な意識から発達していく緑の運動と、ヨーロッパで発達してきた緑の運動はどうも異なる源泉を持っていて、簡単にひとつにはくくれないということでした。

鎌仲:地球や大地を母なるものと考える先住民系の人とは違って、ドイツの緑の党はもっとイデオロギッシュなものですね。ディープエコロジーもそうだし。

中沢:ヨーロッパの初期の緑の党には六八年のパリ五月革命のころの動きから発達した部分があります。左翼が中心になっていて、しかもマルクス主義の影響が強い。ところがマルクス主義と緑の運動はそう簡単には結びつかないのです。そのことはこの本にも書いてあります。その両者が結びついたところに反原発運動も出てきたし、環境保護運動も出てきた。しかしそのあたりの問題の理解をもっと深めておかないと、あるところまでいくと、運動は必ずおかしな方向にねじれていってしまいます。緑の運動は、実は左翼の運動の根幹を揺るがす特徴をもつものなのですが、そのことがあまり見えないまま、いろいろなことが進行していっています。
 じっさい、ドイツには伝統的な自然意識があって、ミヒャエル・エンデなどの運動は左翼とは違うところから出ています。同じ「資本主義批判」でも緑のそれと左翼のそれとの間には、重要な違いがあります。さらに、パーマカルチャーや緑の運動がニュージーランドやオーストラリアで発達した事情を調べていくと、ヨーロッパで発達した緑の党の動きとは違う流れがあるのが見えてきます。
 日本文化の根底には、もともと土着系の文化が、完全に破壊されないまま残っています。資本主義の作り方にも第一次産業の作り方にも人間関係のなかにもそれが土台として生き続けています。近代化の過程の中で揺れ動きはあったけれども、土着的なものを完全には壊さないで作ってきた社会なのですね。ですから日本人が緑の運動を始めようというときには、まずここから出発しなければいけないと思ってきました。先住民系の意識のほうからいまのグローバル資本主義の問題に立ち向かっていくような緑の運動をぼくたちは作っていくべきで、それだから、ヨーロッパの緑の運動をそのまま輸入するようなやり方はできないと思っていました。この本を読むと、その二つの流れの違いがじつによくわかります。

鎌仲:ドイツやヨーロッパの緑の資本主義というのは、経済をどういうふうに循環的に持続可能にしていくかということですが、その思想は結局、グローバル資本主義と資本主義というところでは同根だということでしょうか。中沢さんがおっしゃる先住民から出てきた緑の運動とは、立っている土壌も違うし深さも違うということですね。

中沢:ヨーロッパの森の歴史を見ていると、西ヨーロッパは一回森を伐り開いてしまっているから、もともとの森が非常に少なくなった。ドイツがことにそうでしたし、イングランドに至っては、南部で森林が完全になくなってしまって、危機感を覚えた人々が意識的に森を復活させました。ところが日本人の世界では、森林を伐採しつくすようなまねはしませんでした。平地には水田を拓いたけれど、国土の六〇〜七〇%の森林地帯は持続しつづけた。ですから、一回自然を根こぎにしてその上に二次的な自然を再構築したヨーロッパの文明と比べて、日本では自然との切断がないままにその上に文明が作られ成長してきましたが、ここが自覚のなさの源泉でもあります。乱開発が無自覚に行われてしまうのもそのためでしょう。ヨーロッパはその点、伐るのも育てるのも自覚的にやってきました。環境保護の問題は、自覚的に問題意識を持った人々がそれを言語化して説得力を持った形で運動にしていくことで可能になるけれど、日本ではなかなか難しい。それは自然と人間が入れ子状態になった文明を作ってきたことが根底にあるからです。これはネガティブな形で、日本人の緑の運動につきつけられてくる問題です。
 アジアでなにかの運動を立ち上げていくときの問題ですね、これは。半世紀前の中国が自立を目指していたときに、上海のような都市で共産党がまず立ち上がりました。ソビエトと西ヨーロッパのマルクス主義の理論を取り入れて共産党ができたわけです。でも毛沢東たちのグループは、中国の現実は違う、工業が発達したヨーロッパで労働者階級がすでにちゃんと形成されている世界で生まれた運動をそのまま中国へもってきてもうまくいかないと主張しました。中国は農民が基本だからと、彼らは農村を出発点にした運動を始めました。最初は、ヨーロッパのことも知らない無知な連中が運動をやっていると、ぼろくそに言われた。でも結局、上海のインテリたちがやる運動はつぶれてしまう。持続力があったのは農民を組織した運動でした。これは、たいへん教訓的な話だと思っています。

鎌仲:緑の党はグローバルにはあり得ない、ということですか?

中沢:あり得ます。しかし、最初から「世界理論」みたいなものがあってそれをもとにしていくんじゃなくて、いろいろな地域に出発したものをネットワーク化していくと普遍的なものにたどりついていくというのが、緑の運動のグローバル性だと思います。グローバルな連帯ということについて新しい考えが必要になってくる、というのが緑の運動の特徴です。
 国際共産主義運動が可能だったのは、世界じゅうどこも同じ条件で労働者はプロレタリアになってしまう、そういうところに追い詰められていく、という認識があったからでしょう。だから人類普遍であり、この人たちは国際的な連帯を、インターナショナルを作れるんです。マルクスの時代は、何から何まで所有を奪われて、労働力を売るだけになった労働者を出発点にする労働運動が考えられたわけですが、こういう労働者像には「根こぎ」にされた存在というイメージが背後にあります。ところが緑の運動は、土の上で地域文化を生きている人たちが出発点にならなきゃいけない。「根こぎ」ではなく「根づき」から出発する運動です。国際共産主義運動のように、土地とのつながりを奪われ、自然環境からも疎外されたプロレタリアを国際的につないでいくのとは異って、緑の運動は、まさに大地とのつながりを失わない人間たちが、グローバル化していく資本主義に対抗する運動なのだと思います。そうすると、緑の運動は地域とそこに生まれてきた地域主義から出発する運動となっていきます。その地域主義には人類としての普遍性があって、それによってプロレタリアと逆方向の普遍性を目指していくことになるのです。
 僕はよく人類という言い方をするんですが、たとえばオーストラリアの先住民がオーストラリアの大地で自然とわたり合いながら相互関係を作り上げていった文化と、日本列島という、別の条件をもった土地に流れ着いた人たちが自然環境との相互作用のなかで作り上げた文化はそれぞれ違います。違うけれど、そこには共通性もあります。それは、人間と自然のあいだに一つの回路が作ってあって、自然を人間から切り離したり、ただの資源に作り替えたりしない考え方です。この点が普遍的なのだと思います。それは必ず土地と結びつくわけで、緑の場合は普遍的な運動が地域から出発するしかない。いきなり国際的な緑の運動があって中心部が西ドイツにあるといったありようは、矛盾のように思えます。

鎌仲:土地に根ざして自然と回路を作りながら暮らしてきた人々が、産業革命から二百年ほどの間に、土地と切り離されてプロレタリアートというか取り替え可能な工場労働者にさせられるという、大きな流れが席巻してきたわけですね。そのなかで刈り取られ、洗い流された土地にしがみついて、それでもそこで自然と回路を作って生き続けてきた人たちというのは、ものすごく少数なんじゃないでしょうか。

中沢:でも日本人はプロレタリア化しにくいんです(笑い)。日本人は「根こぎ」されても、新しい空間の中でふたたび「根づき」の文化をつくろうとする努力をしてきました。「根こぎ」された存在のまま新しい世界をつくろうとするところに、社会主義の問題点がありました。ですから、日本人のことを考えると、それほど少数者ではありません。
 イギリスのプロレタリアの作り方はかなり組織的で激烈なものでした。これについてはエンゲルスの書いた有名な本にその根こぎのやり方がくわしく書いてあります。イギリスほど徹底した国はヨーロッパでもない。フランスでもドイツでもなかったと思う。こういうプロレタリアの像では、まるで世界中の人間がいまにプロレタリア化して、土地や文化的な伝統から切り離されて完全な「根こぎ」の状態になるというイメージがあります。でも、日本人を考えてみますと、江戸時代まではまったりとこの国土に生きていることができた。ところが明治以降はヨーロッパ流のというかアングロサクソン流の資本主義が入ってきて、自然破壊が激烈に始まります。

日本の林業とコモンズの重要性

鎌仲:この前、和歌山の熊野大社に行きました。そこで森林業をやっている方たちが地域をなんとかしようと、自分たちで伐り出した地元の材で熊野大社の文化会館を作ったんです。その人たちが、伊勢神宮のために昔天領から木を伐り出していたという話をしてくれました。そこには経済が回るすごいしくみがあったんです。何十万平方の山に百年二百年前に植えた木を伐り出して伊勢神宮の建替えに持っていく。木を伐り出すことで労働して収入が入る。伊勢神宮は六十年かけて百二十ほどの御宮を建て直し続けるので、のべ何十万人の宮大工が食べていけた。いま、日本の家屋の建材はほとんど外材です。日本には広い森林があるのに商品化されていないのが、倒錯的だと思うんです。

中沢:本当は、農業問題と並んで林業問題というのが大きいのでしょうね。日米構造協議で木材の輸入を自由化したことで安い木材が入るようになって、山林の値段がすごい勢いで下落しました。山の人たちが山林では食べられなくなってしまった。今のTPPと同じで、自由化がそれをもたらしています。そういう倒錯した状況のまま、日本の森林はどんどん荒廃しています。

鎌仲:五十年百年かけて木を育て、五十年後百年後に木材を伐採してお金になる。それまでの五十年間の暮らしをたてることが前は可能だったんです。でも、山での生活のスタイルを作っていた人たちが、食べていけないからどんどん山を下りることになった。

中沢:この本の中の非常に重要なポイントはコモンズの復活ということですね。コモンズの思想の発端もイングランドです。イングランドにはその頃、ウィリアム・モリスをはじめとして危機感をもった人たちがたくさんいました。実のところ、世界じゅうのいたるところにいろいろな形のコモンズが広大にあった。そこを共同管理していると、それぞれの職能を持った人たちが機能的につながって全体が動いていくようになります。森も土地もそういうふうに共同管理されると、うまく循環していくようになるのでしょうが、商品化されて私的所有となったとたん、その循環がとまってしまいます。
 南方熊楠が猛反対した神社合祀の問題なども、このコモンズの問題につながっています。
何のために神社合祀をやったかというと、早い話が山林を売れるようにするためでした。神社領というのが非常に多かったので、神社が二つあるところを一つにしてしまえば一つは売れるということです。あのときに熊楠のしめした怒りは、ほとんど先住民の怒りでした。彼は自然保護とか、生態系の破壊とか多様性の破壊とか、そんな生やさしい理屈だけで反対をしていなかったと思います。熊野の山の中に住んで森と一体化していた、それに対する破壊が加わってきたわけです。そうなると熊楠が怒っていたのは、やはり資本主義に対してだったということになります。土地を売れるものにする、私有化することに対しての怒りです。商品化されることで森までが「根こぎ」にされ、それは熊楠が一体だったものをこわしてしまう。そういうことの実現のために政府が法律を使った。その法律に対して熊楠は抵抗し闘っているように見えるんですが、実はそうじゃなくて、いまぼくたちが直面しているのと全く同じに、資本主義の問題だったのですね。

鎌仲:そういうふうに熊楠が怒ることができたのは、いま行われているのはこういうことだという包括的な理解ができていたということですね。

中沢:彼は「エコロギー」という言葉を知っていたし、産業革命時代のイギリスにいたので産業と自然の関係がよくわかっていました。ただ、彼の怒りの根底にあるものは、そういう理論を越えているところがある。これからの緑の運動にとって、熊楠のような感覚が非常に大事だと思うのですが、そのことをとりわけ強く感じたのは、祝島に行ったときです。この島にはそういうものが生きていると、如実に感じたんです。
 学生時代に周防大島あたりを歩いたことがあります。そのころはそういうのはごく自然なことだ、日本人はこういう考え方をするのが当たり前だと思っていた。でも周防大島に橋が通ってしまうと、そんな日本人の考えはたちまち吹っ飛んでいくのがわかった。

鎌仲:橋というのは重要ですよね。長島には橋がかかって本土とつながったんです。でも祝島は祝島で生きていくしかない。そういう感覚と、いつでも橋を渡って本土という場所に行けるという感覚は相当隔たりがあります。

中沢:祝島には本土と続ぶ橋がなかったから原発反対の運動を続けられた。本土と一体になることによって別の原理が入ってくる。それが何か、いまでははっきりわかります。
 いろいろな意味でのコモンズの問題が、これからの緑の運動の中心になっていくでしょう。でも、日本にはコモンウェルスという考えは限られた一部にしかないんじゃないでしょうか。まずコモンズにあたるよい日本語をつくることから始めないと。
 破壊が進んでいったもうひとつの理由は、明治期の動きに加えて、戦後にGHQが行った農地解放に伴う改革です。これは大地主や財閥の基礎を解体するために行ったんですが、そのために農地も山林も所有権が細分化されていった。その結果、ひとりのお百姓さんが持っている田んぼや畑は飛び飛びなところにあって、これをいったいどうやって大農地化なんかしてくのかと思ってしまう。日本は明治時代から、小農か大農かという論争が続いているし、農産物の関税問題についてもずっと論争が続いています。どちらも日本人がずっと抱えてきた問題だといえます。

鎌仲:そうした問題が今の時代になって極まってきた気がします。陰が極まると陽になるような極まり方というか。環境破壊も極まってきたし、思想的な市民運動やプロレタリアート運動は終わった感じがする。そして資本主義も極まってきたと思います。

グローバル資本主義vsキアスムの文明

中沢:日本人が直面している問題で象徴的なのはTPPの問題です。なぜそんなものをいまどきアメリカが強硬に押し付けてきて、それに外務省や財務省や政府の連中が従おうとしているか。アメリカ発のグローバル資本主義が、といった言いかたをよくするけれど、じつはグローバル資本主義は国家であるアメリカでさえない。アメリカを足場には使っているけれど、アメリカ政府の人たちは何かもっと大きいものに支配されている。それはいまのところグローバル資本主義としか言いようのないものですが。実際、オバマは当選するまではまったく逆のことを言っていた。ところが、大統領というポジションについたとたんにアメリカよりも大きいものに包囲されてしまって、まったく逆のことをやらざるを得なくなっています。

鎌仲:つまりそれは多国籍企業ですね。

中沢:このグローバル型の資本主義は資本主義の極まった形態ですから、労働力を徹底的に流動化して根こぎにしていく。商品も流動化の規模を大きくしてこれも根こぎにしていく。地球上のいっさいのものを根こぎにしていくという運動の意思が見えるとともに、その破綻も見えています。うまくいかないのが目に見えるのです。  日本の企業でも、ユニクロのようにグローバル資本主義の流れの中で成功しているところがいくつかあります。ユニクロの工場が世界中に転移して、今度はアフリカにまで行く。そうなったとき先が見える。いま、日本人はユニクロであんまり買わなくなっていて、むしろ中国やアメリカで売っている。でもそのうちそこも店がガラガラになっていく。ヒートテックをそんなに何枚もいらないですから。

鎌仲:資本主義も極まっていってプロレタリアート運動のように消滅するという、同じパターンを繰り返しているわけですね。

中沢:資本主義はいまある種の末期症状に入っていますが、それを推進している人たちは短期利潤を得ようとするので、それがたとえ何を破壊しようが、自分たちがやっていることの先が破綻であろうが、構わないんだと思うんです。

鎌仲:先日アメリカのバーモント州に行ったんですけれど、ほんとに空洞化していてアメリカはもう終わった、っていう雰囲気がありました。バーモント・ヤンキーという老朽化した原発をめぐる運動をしている人の家を訪ねると、二十年も三十年もそこに根ざして有機農業をやってきた人たちですが、暮らしのスタイルがすごくミニマムで、最小限で暮らしているんです。家庭菜園を持って、開拓民が当時そうあったであろうシンプルライフで、車はもたずにシェアリングをしたりしています。

中沢:一方でモンサントみたいなものが猛威をふるっている。

鎌仲:TPPの二十年ほど前にNAFTA(北米自由貿易協定)というのが結ばれました。それは北アメリカと南アメリカの間の関税を撤廃しようというもので、メキシコのトウモロコシ農家が壊滅的になって、酪農や畜産もグローバル資本主義の理論でやられて、日本が買い支えたりしている。ハイチもアメリカの安い農産物が流入して農業を壊してしまう。NAFTAもTPPも同じことをやっていると、歴史を見ればわかるのに。

中沢:いまや世界は二大勢力に分かれつつあります。かつてマルクスは世界が資本家とプロレタリアートに完全に二極分化するから、万国の労働者は団結せよと言った。今起こっているのは、キアスムの文明とグローバル資本主義の二極分化です。キアスムの文明とは、具体的な世界に根ざす文明、自然環境と人間を切り離さないでつながりを作り出す文明の形を言います。これは必ず地域と結び付いて地域社会を形成していき、そこで人間の豊かさを作り出そうとする文明です。もうひとつは、いっさいを根こぎにして商品化してそれを貨幣にかえて、この実体のない貨幣をコントロールしていくという金融資本主義型の、いわゆるグローバル資本主義です。この二つの勢力に大きく二極化していく。
 だから、緑の運動の普遍主義は、いままでの左翼の考え方とは違うところに立たなければいけないと思うのです。左翼の考え方は根こぎの思想の呪縛下にあります。ところが緑の運動は地域に根ざすもので、しかも土地とのつながりのなかで形成されてきた文化の多様性に立脚することになります。ですから、マルクスの時代のように万国のプロレタリアートに向けてインターナショナルから指令は出せないわけです。土地土地にそれぞれ最適化したモジュールが形成されて、このモジュールを結合するネットワークの運動が緑の運動になるだろうと思うんです。祝島モジュールをたとえば世田谷に作るとか、そういうことを通じてモジュールを増やしていこうという動きになるでしょう。ですから「万国の緑のモジュールよ、団結せよ!」がスローガンになります。

鎌仲:プロレタリアート運動というのは、地域の文化を根こぎにしていく流れによりそった部分があった、運動の形態としての根がそこにあって、それをアプリオリに認めた上での運動だったと。でも資本主義、グローバル資本主義、市場経済至上主義という大きな津波が地球を席巻したあとに、まだそれでもそこに残っているものがある。

中沢:残っているモジュール同士をつないでいくと、コモンズもそこに復活していくことになります。この本で物足りなかったのは、緑の政治哲学の部分でした。緑の政治は、マルクスのビジョン、近代工業化の過程で生まれるプロレタリアートの運動の理論とは、ある意味でま逆を行くものです。ま逆だけれど、共通点もいっぱいあります。土地と地域に根ざした文化に根ざす運動は、ひとことで言うと「保守」なんでしょう。

鎌仲:でも日本の場合は倒錯がある。保守層が原発を導入し、自民党を支持してきた。

中沢:彼らは本当の保守主義者じゃないということです。

鎌仲:私はインドでガンジーがやった運動と似ていると思うんです。つまり塩を作るとか、糸車を回すとか、しかもインドにある数万の村々がそれぞれ独立してしまえばいいというようなことをガンジーは言った。モジュールというのは、そういうイメージに近いと思うんです。一村一品じゃないけれど、それぞれの村々がもっている土地に根ざしたものを作る技術とか、生活を支える伝統とか、そういうものを生かしていくことです。

中沢:そこにもネットワークを作らないとね。こっちは干し柿、こっちは何か別のもの、そしてそれがネットワークを作っていったときに初めて意味を持つわけです。経済学に比較優位という国際自由貿易を推進していく理論がありますが、村ごとの一村一品運動というのは、ネットワークを作っていくと比較優位で動き出す。これをうまくすり替えると国際自由貿易理論になりますが。

鎌仲:すり替えはすごく狡猾におこるので、みんなだまされて吸い込まれていってしまう。ものごとを消費したい、よりおしゃれなものを買いたい、より豊かに金持ちになって搾取される側から搾取する側になりたいという欲望が刺激されるからだと思うんです。

中沢:今の二十代から三十代初めの子たちはそういう欲望が弱いから、変にエスタブリッシュした大人たちの世界観に染まらせないようにするのも大事だと思います。そのためにはそういう価値観をいっぱい発信していく必要があると思っています。

暗黙知とトーテミズム

鎌仲:祝島が反原発の闘いを展開していますが、長く彼らは自分たちが当事者として中国電力と戦わなきゃいけないんだと、あまり外の応援を当てにしていなかったんです。そこに『六ヶ所村ラプソディー』や『ミツバチの羽音と地球の回転』(以下ミツバチ)を見たりして、シーカヤックやサーファーの若者の集団が応援に来るんですけれど、そういう若者たちは、都会を捨てて限界集落の古民家とか空家に入っていって、自然農をやって自給自足的に暮らしたいという人がすごく多い。都会側から見るとドロップアウトした人たちというか、収入がほとんどなくてお金に執着がないけれど、島の人たちから見ると「得体のしれない人」に見えてしまう。そこに大きなギャップが生まれているんですよ。

中沢:祝島の山戸貞夫さんと話している時に、「運動を応援してくれる左翼運動の人たちが来るけれど、なんか違う。おれたちの運動は言ってみれば故郷と自然を守れという保守だからさ。そこが違うんだよなあ。」と言っていました。ヒッピーさんもドロップアウトの人も、心構えがないから保守になれません。保守になるための第一段階は、『ウォールデン 森の生活』でも読んで、お百姓さんや漁師さんの話を聞いて勉強しないといけない。

鎌仲:勉強しつつ、かつ生産活動に従事して、そこにあるスキルを本気で身につける。

中沢:それがない限り、島に入ってこないほうがいいと思う。緑の運動はある部分では左翼運動とよく似た本質を持っている。それがいまのグローバル型資本主義に対する対抗運動だからです。しかし保守とも共通点をもっている。それは土地や地域と結びついて、そこに立脚して、そこで育った文化から出発する運動だからです。ということは、緑の運動は保守と左翼を両方かかえこむ運動ということになる。あるいは、その両方に共通しているものを、自分の立脚点にしていく運動だと思うんです。

鎌仲:この本の中にも書いてありました。「右でも左でもなく前へ進む運動」だと。

中沢:先住民の人たちが自分たちの暮らしを守るための抵抗運動をしていると、そこへ左翼の人たちが応援にいく。だけど、本当は考え方が違うんです。資本主義と結びついた国家とか企業とかの力が破壊しにきたらこれに抵抗する。この点は同じなんですが、立脚しているところが違う。

鎌仲:どういう生活スタイルを立てて、どういう社会を希求しているのかもきっと違う。

中沢:僕の個人的な考え方では、左翼的な考え方は、グローバル資本主義と同じように、このさきあまり命運がない。

鎌仲:中央集権的なんですよね。党が指令を出すというやり方をしますから。でも土俗的なものは、誰かが指令を出すということではないんです。

中沢:土俗はタシット・ナレッジだからね。暗黙知が伝わっていくやり方だから。暗黙知というのは、マイケル・ポランニーという人の言葉ですが。

鎌仲:暗黙知というのはいい言葉ですね。祝島ではそれぞれがそれぞれで勝手にいろんなことをやって、それが最終的にひとつの運動に集結していくんです。別に山戸さんがみんなをコントロールしているわけでもない。神舞のときもそうです。山から竹を伐り出してくる、その竹を海につけて節をつるつるにするんですが、それを誰かが勝手にこれはおれの仕事っていうふうに分担してやるんですよね。

中沢:党っていうのがそもそもだめなんでしょうね(笑い)。ことに日本では。

鎌仲:この本の中でも、緑の党の考え方そのものが、政党的なるものを否定している、政治的な根本を否定するところに立った考え方ではないかと言っていますよね。

中沢:党の考え方を明瞭に定式化したのはレーニンで、『何をなすべきか』という本の中でそのことを書いています。党というのは意識が高い人たちで、それが大衆に一種の刷り込みを行なって前へ先導していくんだと。だから党はピラミッド型の構造をとるし、同じ意見の人たちだけで結合体をとるから異質の分子を排除していく。この党のやりかたは歴史が古くて、そこに必ず反伝統主義があります。
 大衆は暗黙知で意思伝達を行なって、いろんな要因が複雑にからまりあいながらその中で最適解を作り出す。時間をかけてそれをやって、組織形態をつくったり、村の形を作ったりしていく。だから時間がかかるんです。ところがレーニンの考えた党は、万事が早い。情報伝達機構も早いし、情報も単一化されているし、上から下へ指令がおりてくるという形でひとつの運動をつくる。効率的。暗黙知が全然働かなくなるわけですね。

鎌仲:そうですね、指令待ちになっちゃう。

中沢:ここが日本共産党の抱えるパラドックスです。「原発からの撤退」「地域文化の重視」とほんとにいいことを言う党です。でも、チャームが感じられない。それは党だからです。そこを共産党の人たちは意識しないと、ますます党勢は貧弱になっていくと思います。

鎌仲:プロレタリアート運動もそうですよね。いま、反原発運動のデモが自然発生的にたくさん起きているけれども、これまでは労組が動員して、全然やる気のない人たちが日当をくれるからとただ来ていた。だから何のエネルギーもメッセージもオーラもない。

中沢:しかし今回は違いました。スポンテニアスに一連のデモが始まった。三・一一以後の一つの効能は、日本人の中に、ある種の暗黙知が形成された。これを言語化すると、たとえば「原発はもうやめましょう。新設なんてとんでもないし、老朽化したものは廃炉にしていく」ということ。これはもう日本人の合意として形成されています。

鎌仲:でも経団連は違う(笑い)。

中沢:経団連の意識は別のところからつながっていますから。それは米倉会長の背後にいる米国企業とか、別の意識で動く流れがあるからです。

鎌仲:アメリカを動かしているのと同じ意識ということですね。

中沢:アメリカ政府を動かしているものが動かしています。ところが、日本人の中で暗黙知として形成されているものがあって、デモだって暗黙知の中からスポンテニアスに生まれている。「素人の乱」なんかを見ていて本当にそうだと思いました。そういう時代に入り始めています。この本を読んでいて、緑の党の「党」はだめだ、「党」ではないだろう、とはっきり理解しました。ただ、世界が二分化されているのは確かで、だから「万国の緑、団結せよ」なんですが、この緑は必ず地域に根ざしたもので、いきなり世界とか普遍とか国際にはならないところから出発して、そこからモジュール同士をつないでいかなければいけない。

鎌仲:それ、私やってるなあ。『ミツバチ』は自主上映会で広がっています。地域の中で祝島的な価値観をいいと思う人たちが呼びかけて人を集めて映画を見て、一緒になんかやりましょうという。北海道から沖縄まで『ミツバチ』は五百か所で、『六ヶ所村ラプソディー』はもう六百五十か所でやっています。そうすると次は、たとえば秋田のグループが岩手や新潟のグループと、お互いに顔と顔が見える関係を作ってつながっていく。モジュールをつなぐという意識は、まだ育っていないですけれどね。

中沢:そのモジュールを健全に動かすためには、土地が必要、地域が必要、産業が必要で、芸術はそのなかに組み込まれたときに初めて生きたモジュールになれます。祝島モジュールで重要なのは、あそこの神舞という芸術的要素が、必ず食べたり生産したり漁をしたりという要素と結合しているからだと思うんです。その結合体を『ミツバチ』の映画が作り出すという方向に進んでいくときに、初めてモジュールになる。映画だけで前進していくと、文化人の前衛運動みたいになってしまう。でも鎌仲さんの映画と上映運動は確実に扉を開きましたね。

鎌仲:映画だけでは価値がないんです。地域で生きている人たちが、祝島的なものを自分たちの地域の中に再構築していく、そのために使うことで価値が出てくる。そういうことを無自覚に求めているという気配はしているんです。

中沢:社会学に、『贈与論』を書いたマルセル・モースという人の、「全体的社会事実」という言葉があります。ここで言う社会は社会と自然が一体になったもので、祝島を見て、その一体になったものが闘っている、これは全体的社会事実のおこなっている闘いだと思いました。

鎌仲:私も初めて島に行ったときに、島全体が生命体のように見えました。島の人たちは、島で生きて自分が島全体にどういう寄与ができるかと、無自覚に暗黙知として考えていると思うんです。島がより生き延びるために、よりよくなるために、自分が何をささげることができるかという発想が自然体のなかにある。でも、外から来る人たちは祝島を消費しようとする、いい思いをしようとする。だから島の人と齟齬が生じるわけです。

中沢:土地への責任感ということでしょう。そういうもののいちばん古い形態は、オーストラリア先住民のトーテミズムです。いろんな集団がそれぞれのトーテムを持っていて、ヤムイモのトーテムの集団の人たちは、ヤムイモの生命のことをしょっちゅう考える。別の人たちは芋虫のトーテムで、芋虫のことばかり考えてそれに責任を持つわけです。そういうトーテムが集まって、全体が作られてくる。だからヒッピーの人たちも、島のなかの何かに責任を持つことから始めるといいんです。

鎌仲:そうしたら、祝島じゃなくてもいいんですよ。日本中のどこでもいい。日本のどこに行っても、責任をもてるいろんなものがまだ残っているはずです。

中沢:トーテミズム運動っていうのを始めよう(笑い)。

鎌仲:いま中沢さんに言われて、自分は子供のころにトーテミズムをやっていたなと思いました。この木は私の木、私がこの木を守るって、すごい愛情をもって一本の木と関係を取り結んでいましたよ。子供のころは、その関係性をどう言葉にしたらいいのかわからなくて、それを自分のものにするにはどうしたらいいんだろうかと考えていました。

中沢:そういう責任感を持つかぎり、この運動はどこでも可能です。僕には川と、その近くにあった馬頭観音がトーテムで、その二つとのつながりがいまだに生きていますね。

鎌仲:そういうものを持っている子供時代と、そういう関係性のない子供時代を送って大人になったのとでは、ちがうかなという気がしますね。小川に出てくるカエルは去年と違うカエルだけど、同じカエルなんです。ホタルもそう。そういうものも根こぎに遭っています。今年はカエルが出なくなったとか、ホタルが少なくなったとか。そこが今危機なんです。思想とか、社会形態とか、資本主義というのが極まっているけれど、日本の自然界の豊かさもひとつの極限にきている気がします。

中沢:今までの環境保護運動の限界点は、根源的な理由まで問い詰めなかったことにあります。この本にはさらっと書いてありますが、すべての根本原因は資本主義だという、じつはそこなんですよね。ただそこで、資本主義だと言うときに、これからそれに対抗するものは緑の暗黙知です。

貨幣とは何か、資本とは何か

鎌仲:十年ほど前に『エンデの遺言』という番組を作って出した時に、年をとるお金というのをその中で紹介しました。何もかもが劣化していく自然界のなかにあって、お金だけが不滅であり、しかも利子を生み出す。そこが資本主義の源泉なんです。交換の道具を超えてしまって、ただ置いておくだけで利子と複利を生み出して増殖していくという。

中沢:エンデはストレートな生の形では表現していませんが、根源的なことがわかっていた気がします。自然の増殖というのは本来、利子増殖です。元本の何倍にも増えていきます。どうしてそんなことが起こるのかというと、太陽エネルギーです。太陽エネルギーが惜しみなく地球上に注がれて、それを植物が絶え間なくエネルギーに変えて、それを動物が消費して、というように根源に増殖が起こっています。この自然界がおこなっている増殖の模倣形態として、貨幣利子が生まれる。貨幣を出発点にすると増殖の問題は資本主義の形になります。何が貨幣とそれ以前にあるものの違いかというと、永遠のものと腐るもの、これもひとつの対比だけれど、もっといろいろあると思うなあ。

鎌仲:『エンデの遺言』の一本目に、イサカアワーという地域通貨の話が出てきます。そのイサカアワーに、私たちにとって本当の資本とは、山であり虫であり川であり滝であり森である、イサカアワーはその資本を守るためにここにあると書いてあるんです。

中沢:そうそれです、それがキアスムです。つまり価値の根源が、人間と自然の交差の中に作られていく。価値物というのは、人間から切り離されたものではなくて、自分と結びつきをもっている土地であり植物であり動物であり、それらの結びつきの全体が資本です。しかもこの資本は増殖します。資本のもともとの意味は増えるということですが、自然は増殖原理でできています。では貨幣と何が違うかというと、交差になっている点です。交差状態になったものは、私とあなたの区別、私と自然の区別をつけにくいから、価値交換をするのが難しい。じゃ、その世界に交換はないかというと、ある。それが贈与で、価値にプラスアルファして交換する。貨幣はその増殖を模倣していく形をとったわけです。ということは、贈与社会と我々が目指していく新しい経済、緑の経済は、深いところでつながっていくんだろうということです。
 エンデが言う、腐るものと永遠のもの、これは昔から神話のなかでいろんなふうに語られます。この違いは、たとえば勃起したペニスと柔かいペニスの対比とか、焼いた料理と腐っていくもの、蜜と灰、タバコと蜜、いろんな形で表現されていて、その一つをエンデはああいう形で取り出していると思う。だから、オルタナティブ貨幣は千差万別考えられると、ゲゼルの本を読みながら僕は思っていました。

鎌仲:実際に、千差万別あったんです。アメリカの公文書館に行くと、国家通貨が下落した時に、アメリカ中で作られた地域通貨をたくさん見ることができます。それこそが、通貨が下落した時に地域を生き生きと活性化することができたんです。

中沢:日本人は用意をしておかなければならない時期にきています。デフォルトに用意しておかなくては。金塊を買いに走るのではなく、地域通貨の訓練をしておかないと、二〇一二年からの事態には対応できない。

鎌仲:『エンデの遺言』の第二弾を作った時に、JAKというスウェーデンとデンマークの国境地帯にいた人たちが、利子のないお金を作って使っていたという、その運動が始まったところを取材しました。その子孫たちは資本とは何かと考え続けていて、インターネットで新たな利子のない貨幣をボランタリーに運営して、つながりあっています。

中沢:日本人も、貨幣とは何か、資本とは何かをもう一度考え直さないとねえ。緑の経済特区をたくさん作っていく運動を始める必要があります。

鎌仲:このあいだ宮古島で『ミツバチ』を上映してくれた映画館の館主が、もやいをやっていると言っていました。一万円ずつ十二人が出すと毎月十二万円集まって好きな人が取っていくという頼母子講で、だれでもやっていて、仲間もできると話していたんです。

中沢:昔の日本で作られていた民俗的モデルの再利用だね。

鎌仲:一九九九年に『エンデの遺言』が放映されて、その年のうちに三百くらいの地域通貨ができて、今は六百を超えています。地域通貨そのものは細々としているけれど、そこに地域の自然エネルギーが合体したら、もっとパワフルになれると思うんですよ。

中沢:お金を使わないで暮らす若者が増えるといいなあ。そんなことをこの本を読んでいろいろ感じました。

鎌仲:緑の政治に関する思想地図が、時系列的にも水平的にも網羅されていて、勉強になりました。日本の緑の運動がどうしていけばいいか、ヒントがあるんじゃないかな。

鎌仲ひとみ早稲田大学卒業。カナダ国立映画製作所にわたり、米国などで活躍。一九九五年から日本を拠点とし、ノンフィクション番組を制作。核問題三部作となる映画『ヒバクシャ』『六ヶ所村ラプソディー』『ミツバチの羽音と地球の回転』が二〇一〇に完結。共著に『内部被曝の脅威』(ちくま新書)など。

中沢新一東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。思想家・人類学者。現在、明治大学野生の科学研究所所長。著書に『緑の資本論』(ちくま学芸文庫)、『森のバロック』(講談社学術文庫)、『カイエ・ソバージュ』全5巻(講談社選書メチエ)ほか多数。